日本の有名フレンチレストラン「ひらまつ」広尾本店で、8年間料理長を務めたのが小川大樹氏。順風満帆に見えるキャリアを歩んできたが、「ある決断」を境にすべてを手放すことに。コロナ禍を経て、鎌倉の海と江の島を眼前に望むスモールラグジュアリーホテル「UMITO」のオーベルジュ「Le RESTAURANT」料理長に就いた小川氏が、当時の心境や、「足す」ではなく「引く」の哲学、そしてその先に見えてきた景色を語る。
Profile
第126回 小川 大樹 (おがわ ひろき)
UMITO 鎌倉 腰越 総支配人|「Le RESTAURANT」料理長
1981年大阪生まれ、広島育ち。辻調理師専門学校フランス料理専攻を経て19歳でフランスへ。ミシュラン三ツ星レストラン「ミッシェル・ゲラール」で研修後、帰国して株式会社ひらまつに入社。1年半後渡仏し、パリ店で研鑽を積む。同時期に「ポール・ボキューズ」「オーベルジュ・ド・リル」で研修、レストランひらまつ広尾本店で8年間料理長を務め、2020年に退社。コロナ禍を経て、2024年、鎌倉のオーベルジュ「UMITO 鎌倉 腰越 」のレストラン「Le RESTAURANT」シェフに就任。
UMITO 鎌倉 腰越
鎌倉・腰越海岸の目の前に位置する「UMITO 鎌倉 腰越」。全2室、1フロア1室のスモールラグジュアリーホテルで、全室から江の島と水平線を望み、波音に包まれながら穏やかな時間を過ごせる。プライベート露天風呂やオーシャンビューサウナを備え、都心から約1時間とは思えない“静かな大人の湘南”を体感できる。
祖父の背中から学んだ、「職人」への憧れ

父方の祖父は宮大工でした。家も机も棚も、必要なものはすべて自分の手でつくってしまう人で、子どもながらにその姿に圧倒され、憧れを抱いていました。
「祖父のような職人になりたい」という気持ちがずっとあり、ある時祖父に「どうすればおじいちゃんのような職人になれる?」と聞いたことがあります。すると、「建築が一番の近道だ」と言われたのです。それで、高校では建築科を選びました。でも正直なところ、製図を引いていてもあまり楽しくなかったんですよね。心が動かなかった。
転機は、高1の時に訪れました。和食の居酒屋でアルバイトを始めたのですが、そこで、魚をおろすなど調理も教えてもらったのです。手を動かせば動かすほど、どんどん面白くなっていきました。建築の授業では味わえなかった感覚でした。
17歳で描いた、フランスへの「最短距離」
「フランスへ行きたい」と思ったのは、なにげなく見ていたテレビがきっかけでした。フランス人ばかりの厨房の真ん中にシェフが立っている姿を見た瞬間、「自分もここに立ちたい!」と直感したのです。フランス料理やフランス文化のおしゃれな世界が、それまでの自分の身の回りにはないものに映り、「一流のフランス料理シェフになりたい!」と心が決まりました。
フランスの三つ星レストランで働くにはどうすればいいか? まず、最短距離を考えました。調理師専門学校に入り、トップの成績をとれば、フランスのトップの店への研修枠があることを知り、「であれば、まず専門学校に入るための高卒資格が必要だ」と思ったのです。今の学校にあと2年いるのは長すぎる。逆算すれば、やることは決まっていました。
高2で建築の学校を辞め、居酒屋で働きながら通信制で高卒資格を最短で取得。そして、辻調理師専門学校のフランス料理専攻へ入学しました。そこでフランスの進学校への留学資格を得て、19歳でフランス行きを手にしたのです。
現地では、学校から一番遠い山奥の三ツ星レストラン「ミッシェル・ゲラール」に研修に出されました。今思えば「こいつはたくましいから、どこでもやっていけるだろう」という判断だったのでしょう。言葉はほとんど通じませんでしたが、料理の専門用語は限られているので、体で覚えました。多国籍の厨房で、怒鳴られながら、それでも面白くて仕方なかった。目的が明確だと人は動けるものですね。
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ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)
1926年生まれ。フランス・リヨンを代表する伝説的料理人であり、“フランス料理界の皇帝”とも称される存在。ヌーヴェル・キュイジーヌ(新フランス料理)の中心人物として世界の食文化に大きな影響を与えた。ミシュラン三つ星を長年維持し続け、世界中の料理人たちの憧れの存在となった。
「ひらまつ」の名を継ぎ、手放すまで
帰国後は、「株式会社ひらまつ」に入社しました。「パリで働きたい」という夢があったので、パリにレストランを持つ会社を選んだのです。ちょうどパリ店が4区から16区へ移転・拡大するタイミングで、現地スタッフを必要としていました。そこで、幸運なことに入社1年半でパリへ渡る機会に恵まれました。
パリ店で研鑽を積んだ後、26歳で「ポール・ボキューズ」、28歳で「オーベルジュ・ド・リル」と、20代で計3カ所の三ツ星レストランで修行しながら、一つひとつ着実にポジションを上げていきました。厳しい環境でしたが、「一流のシェフになる」という明確な目標があったからこそ、どんな苦労も前向きに乗り越えることができました。
フランス料理の厨房は、どこかオーケストラに似ている気がします。シェフは指揮者。個人プレーをするのではなく、それぞれが自分の持ち場で必要な音色を奏でることで、料理が完成する。その構造を、体で覚えていきました。
帰国後、レストランひらまつ広尾本店の料理長を任されることになりました。やがて、「ひらまつを継ぐ」という大きな話が動きはじめました。養子縁組をして、「平松」の名を継いだのです。私は「ひらまつ」というブランドを守りたかった。その繁栄のためなら、自分の身を削ってでも挑み続ける覚悟でした。

でも今思えば、あの頃の私は敷かれたレールに自ら進んで乗り、理想とされる“平松シェフ像”に自分を重ねていただけだった気がします。本来の自分らしさや目指したい方向を見失っていました。
そんなある日、古巣である株式会社ひらまつと、独立したひらまつ総合研究所との間に、ある対立が起こりました。私は「どちらにつくか?」の選択を迫られることに。ですが、私にとってはどちらも大切な存在であり、一方を選ぶことはできなかった。「何とか一緒にやっていく方法はありませんか」と伝え続けたのですが、それはかないませんでした。最終的には、「ならば、私が身を引かせていただきます」と伝え、その日のうちにひらまつの厨房を離れることになりました。
けれど、翌日にご予約いただいているお客様のことを思うと、そのまま立ち去ることはできなかった。深夜3時、厨房に戻ると、お客様に満足していただけるように黙々と仕込みを済ませました。最後に手紙を書き残すと、静かに厨房を去りました。
今振り返れば、「もう少し暴れてもよかったかな」と思うこともあります(笑)
でもあのときの私は、自分のことよりも店のことしか考えられませんでした。
失ったことで、取り戻したもの

この時、あれほど情熱を注いできた料理への気持ちが、糸が切れたように一気にしぼんでしまいました。やり切った末に、料理そのものを嫌いになってしまったというのが正直なところです。同時に、自分の存在価値までもが泡のように消えてしまった感覚があり、何を支えに生きていけばいいのかも見失っていました。
さて、これからどうしよう──そう思っていたところに、コロナ禍が来ました。
私は父のもとへ帰ることにしました。
母は55歳で亡くなり、以来父は一人。なのに、私は「仕事が忙しい」を理由に、この10年間ほとんど顔を出していなかったのです。
どこにも行けない時間の中で、静かに父と過ごした日々は、思いのほか幸せでした。そして、この間に嫌いになっていた料理に対する気持ちも少しずつ回復していったのです。そうしたら、俄然悔しくなってきた。「あれだけ必死に修行して頑張ってきたのに、自分は今、何をしているんだ」と。そして、「もう一度、料理人として舞台に立ちたい」と思いはじめた頃、UMITO代表の堀 鉄平が声をかけてくれたのです。
「鎌倉の海を目前に臨む場所に、オーベルジュ(レストランをメインにしたホテル)をつくりたい。一緒にやってくれませんか」という話でした。海が目の前というロケーション、食を中心に滞在を楽しむオーベルジュという構想、そして“新しい価値をつくる”という挑戦。そのすべてが、「もう一度夢に挑戦したい」と思っていた自分の気持ちと重なったのです。
「自分のすべてを懸けて、ここをつくりたい!」
迷いなく、そう思いました。
失ったものは確かにありました。でも、父との時間を取り戻せたこと、もう一度自分の夢へ向かう力を得られたこと。結果として、失った以上の大きなものを受け取ることができた、と今は思っています。
シェフは指揮者、料理は実験

UMITO 鎌倉 腰越「Le RESTAURANT」での料理は、つくり方からして以前とはまるで違います。
かつては、自分のつくりたいものを先に思い描き、それに合わせて世界中から食材を取り寄せるスタイルでした。今は逆です。毎朝届く野菜や、自ら市場へ足を運んで出会った地元の食材を前に、「これらを使って何をつくろう?」と考える。食材と向き合いながら、メニューを想像し決めていく。その制約の中にこそ、料理の面白さがあります。
料理人は迷ったとき、つい何かを足して安心しようとしがちです。フランスから帰国した直後は、シェフとしての自信が足りなかったこともあって、食材にさまざまな手を加えて料理をつくっていました。でも今振り返ると、それはごまかしだったように思います。余計なものを削ぎ落とし、引いて引いて素材そのものと真剣に向き合う。それが私の考える「引き算の料理」です。日本料理の根本にもある発想ですね。お刺身がそうであるように、シンプルに素材本来の力をどう引き出すか。これこそが料理の本質だと、私は思っています。
フランス修行時代に覚えた「シェフは指揮者」という言葉が、今ようやく腑に落ちています。以前の私は「全部自分が決める。他人の意見も聞かない。それがシェフだ」と思っていました。ですが今は、スタッフひとり一人の長所を引き出すことが、自分の仕事だと考えています。周りの人がいるから、自分が成り立っている。料理と同じで、人との関わり方も「引き算」になりました。以前より、人にも自分にも優しくなれたと感じています。
若いスタッフには、「料理は挑戦ではなく『実験』。だから、怖がらずにいろいろと試してみて」と伝えています。 挑戦だと思うと、失敗できなくなる。でも、実験なら、どんな結果も「発見」になります。恐れずに、もっと自由に料理と向き合ってほしいと思っています。
私はこれから、目の前の人を幸せにできる生き方を積み重ねていきたいと考えています。その先に、自分が輝ける場所があると思うのです。
今回、このように自分のこれまでを記事としてまとめていただき、改めて人生を振り返る貴重な機会となりました。その当時、大輔さんからいただいた「人間万事塞翁が馬」という言葉が、今でも心に深く残っています。振り返ると、自分の人生そのものを表している言葉だったように感じます。そして、一度は連絡が途絶えてしまった私たちが、再びこうして再会できたこともまた、ご縁だと感じており、とてもうれしく思っています。
若い頃に目標としていたフレンチのグランメゾンのシェフとなり、そこで過ごした8年間は、自分にとってかけがえのない時間でした。傍から見れば順風満帆に見えていたかもしれませんが、その頂点にいる時ほど苦しさも大きく、自分を見失ってしまった時期もありました。自分の価値だと思っていたものをほとんど手放した後も、その時々で支えてくださった方々、新たな出会い、そして故郷で静かに見守ってくれていた父や友人たちの存在があったからこそ、今の自分があります。
「フランス料理のシェフになること」「指揮者のように厨房を導くこと」という想いは、形を変えながらも、今なお自分の根底にあります。今回の取材を通して、その原点を改めて再認識することができました。また、フランスでの修行経験、平松シェフ時代、そして一度料理から離れた時間も含め、すべてが今の料理や人との向き合い方につながっているのだと思います。
UMITOという新たな場所で、再びシェフとして挑戦できていることに、心から感謝しています。以前のように一人で背負い込むのではなく、全てのスタッフや生産者の皆さまと共に、一皿一皿をつくり上げていけることに、今は大きな喜びを感じています。
この記事が、自分自身の歩みだけでなく、「失っても、人はまた前を向くことができる」ということを、どなたかに届けられるきっかけになればうれしく思います。
UMITO 鎌倉 腰越 総支配人
「Le RESTAURANT」料理長
小川 大樹
今回の取材は、自分にとって“再会の物語”でした。
大樹シェフと初めて出会ったのは、「ひらまつ」の仕事に関わっていた頃です。料理業界でも「あの人は別格」と評判で、多くの料理人たちが名前を挙げる存在でした。
その後、2018年に福岡へ出張した際、福岡のひらまつで再会する機会がありました。急遽予約を入れて料理をいただいたのですが、その一皿一皿に宿る思想と緊張感に圧倒され、「料理はここまで人間性が表れるのか」と感動したことを今でも覚えています。
そして、突然消えた大樹さん。
時が流れ、Instagramを見ていた時のことでした。偶然UMITOの広告が流れてきたのです。そこには、“平松大樹”ではなく、「Le RESTAURANT」料理長“小川大樹”として立つ彼の姿がありました。
その瞬間、すぐに連絡をしました。名前を戻した意味。すべてを手放した先に何があったのか。そして、今どんな景色を見ているのか。どうしても直接聞きたかったのです。
今回の記事は、自分にとって“大樹さんの生存確認”的な取材でもありました。
取材を通じて感じたのは、華やかな経歴の裏にある孤独や重圧、そして失ったからこそ見えた景色でした。“足す”のではなく“引く”ことで本質へ向かう。その哲学は料理だけでなく、生き方そのものにも通じているように思います。
UMITO鎌倉腰越で再会した大樹さんは、以前のような鋭さに加え、人としての深みと優しさをまとっていました。再び厨房に立ち、穏やかな表情で料理と向き合う姿を見ることができたことを、とてもうれしく思います。
ぜひUMITO鎌倉腰越へ足を運び、大樹シェフの料理を味わってみてください。料理を通じて、きっと何かを感じられるはずです。
「Le RESTAURANT」(ご予約)
2026年5月
UMITO 鎌倉 腰越にて
取材・編集:杉山 大輔
プロジェクトマネジャー:安藤 千穂
文:柴田 恵理(『私の哲学』副編集長)
写真:ごとーひろな
制作:『私の哲学®』編集部
