日本人から大人気。旅行先としてはもちろん、いつの日か、その地で暮らしたいと願う人も多い、ハワイ。吉田太郎氏は、18歳でハワイのとりこになって以来、幾度となく渡航し、ついに45歳で移住を果たしました。4年前から、ハワイで唯一の日本語日刊新聞『ハワイ報知』の社長を務める吉田氏。移住までの軌跡や、日本人とハワイの関係性や歴史、ハワイの魅力について伺いました。
Profile
第84回 吉田 太郎(よしだ たろう)
株式会社 ハワイ報知社 代表取締役社長
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。
1992年日本長期信用銀行(現・新生銀行)に入行、主に法人営業を担当する。2000年、レストラン経営のWDIに転職、海外レストランの日本展開、日本レストランの海外展開を担当し、映画『フォレストガンプ』をテーマにした「Bubba Gump Shrimp」、ニューヨークの「グランドセントラル・ステーションオイスターバー」などの日本展開、日本のイタリアンブームの先駆けとなった「カプリチョーザ」のアジア展開を担当。2008年「ウルフギャング・ステーキハウス」開店のためにハワイに駐在。2010年帰国、2011年アコーディアゴルフに入社し、ハワイのゴルフ場の買収などを手掛ける。2014年静岡新聞社に移り、ハワイ報知社副社長としてハワイ駐在、2015年4月現職に就任。
18歳の初ハワイから27年。 惚れ込んだハワイでビジネスチャンス再来
大学1年生のとき、ゴルフ部の合宿先として訪れたのが、ハワイとの最初の出合いです。サッカー部の先輩が、ハワイでゴルフ場のオーナーをしていて、すごく安くプレーさせてもらえたんです。面倒見が良くて、格好良くて、その先輩みたいになりたいと思ったことも、ハワイの印象を上げたかもしれません。すっかりとりこになってしまい、学生の間ですら何度も訪れました。 社会人になってからは、外食大手のWDIグループで海外のレストランを日本で展開する仕事をしていました。「ウルフギャング・ステーキハウス by ウルフギャング・ズウィナー」と日本展開の契約を結んだときのことです。直後に狂牛病が発生し、日本でオープンできなくなってしまいました。そこで日本人観光客の多いハワイで開業することになり、私が開業責任者として赴任したのです。その後、無事にハワイに店舗をオープンし、2年後に帰国したのですが、なぜかやりきった感がなかった。だから、ハワイでもう一旗揚げたいと思い、ずっとハワイでの仕事を探していました。でも拠点を移すような機会まではなく、もう日本がベースでいいかな、と思った矢先に転機が訪れました。 5年ほど前のあるとき、知り合いだった静岡新聞社の社長から、子会社であるハワイ報知社の社長を引き受けてくれないかと相談があったのです。ハワイ報知は1912年12月に創刊された、日本国外では最も歴史のある日本語日刊新聞の一つ。まさにハワイと日本をつなぐ仕事だったので、お引き受けしました。 当時、ハワイ報知は岐路に立っていました。かつては、ハワイで日本の情報を日本語で入手すると言えばハワイ報知でしたが、インターネットが普及したことで状況が変わり、苦境に立たされていたのです。そこでハワイ現地の政治、経済、社会の情報を日本語で載せたらどうかと提案し、地元最大手の新聞会社Honolulu Star-Advertiserと交渉して、記事と写真の独占利用権を得ました。そこからハワイ報知も、私も、新たな道を歩み始めることになったのです。2018年は、ハワイ日系移民の150周年。 元年者から続く歴史を伝えたい
今年は、日本からの移民がハワイに到着して150周年にあたります。明治元年(1968年)のことだったので、初代の日系移民のことを「元年者(がんねんもの)」と呼びますが、この関連事業も手がけています。 ハワイ報知社では、50年前の100周年に、約100ページにもわたる記念新聞を発行しています。当時の紙面を見ると、平等院を建設したり、日本とハワイ共同で映画を製作したり、さまざまなことが行われていて、どれも大盛況だったことが良く分かります。常陸宮様をお招きした式典には、6,000人もの人が集まったという記録も残っていました。今年の150周年も、日系人団体のみなさんが発起人となり、さまざまなイベントを企画運営されているので、50年前同様、記念の特別号を出すことにしました。元年者からの歴史や元年者の方のエピソード、秋篠宮様をお招きして行われる行事などについて取材し、掲載する予定で進めています。 歴史を振り返ると、真珠湾攻撃という悲しい出来事があって、親の祖国と今住むハワイが敵同士になり、日系人は非常に苦しい思いをしました。でもハワイで産まれた日系二世は、ハワイに住んでいる家族に不名誉は着せられないと、自ら志願して兵隊となり、アメリカ軍に忠誠を示し、命を張って戦った。そういう歴史があるから、今もハワイは日本人を信頼し、親日的なんですよね。戦争を経てなおハワイで生活した日系人や、その子供たちが、その後のハワイの政治や経済を動かしてきました。1974年から1986年にかけて第3代ハワイ州知事を務めたジョージ・アリヨシさんは日系二世ですし、今の州知事も日系三世です。元年者から続く日系人の方たちのおかげで、今のハワイと日本人の関係があります。我々が安心して住める、働ける、日本から年間157万人もの観光客が来て楽しめる。これらはすべて、先人達あってのことだということを、記念号を通じて知ってもらいたいです。 ※ハワイ報知「日系移民150周年記念特別号」は、2018年6月16日に発行されました。ハワイと日本の架け橋に。 「ハワイ報知」だからできること
今後は、ハワイ外でもハワイ報知を読めるような環境を整えていきたいです。観光情報だけでなく、ハワイの政治や経済、社会についても知ってもらいたいと思っています。現地発の日本語メディアとして、できることはまだたくさんありますね。 新聞、印刷事業以外の事業にも積極的に動いています。例えば、ハワイを体験した日本人による、日本人のための現地情報を発信するのも意義があると考え、昨年から111-HAWAII AWARD(ワン・ワン・ワン ハワイ アワード)をスタートしました。世界一厳しいと言われる日本人の視点で、お気に入りのグルメ、お土産、ツアーなどを評価し、オンライン投票でランキングを決定、表彰するというアワードです。ハワイの日本人市場への満足度を高めるだけでなく、ハワイ企業の品質向上、ハワイ経済の活性化にもつながると考えています。まさに、ずっとやりたいと思っていた、ハワイと日本の架け橋になる事業の一つですね。ハワイは、「みんなでハッピーになろう」という 助け合い文化
ハワイの人は、みんなとてもおおらかです。アロハスピリッツという表現がありますが、その意味は、みんなで助け合ってハッピーになっていこうという精神が、文化として根付いていると言ったほうがいいかもしれません。ハワイって、人種のマジョリティーがいないんです。一番多い白人でも40%、次がフィリピン、続いて日系人、ハワイアン、中国、韓国。これが、みんなでハッピーになろうという、ハワイオリジナルの文化をつくっている理由だと思います。 新聞も印刷も専門外だったので、ここまで苦労はありました。でも結局、大事なのは人と人のつながりです。人と話すことは比較的得意だったし、大好きなハワイがベースになる仕事なので、多少のことがあっても、絶対にへこたれません。それに「自分がされてうれしいことを、人にもしよう」という考え方が自分自身のベースにあるので、その信条に基づいて行動していれば、絶対に人から喜んでもらえます。ここでこうして頑張れるのは、私自身の考え方と、みんなで助け合ってお互いにハッピーになろうというハワイの文化が合っていたこともあるのでしょうね。株式会社 ハワイ報知社 代表取締役社長 吉田太郎
「出会いは前かがみ」が僕の行動哲学です。チャンスも出会いも全て自分から動かなければ形にすることはできません。聞いてみよう、やってみようを実践すると、いろいろな奇跡が起きます。2018年はハワイ日系移民150周年という記念の年なので、ハワイシリーズの『私の哲学』をやってみようと思い、行動しました。吉田太郎さんからハワイの歴史や今の情勢、移住したプロセスについてハワイ報知社の庭で取材させていただき、好きなこと、やりたいことは思い、行動し続ければ叶うと分かりました。 ハワイにはこれまで観光で訪れていましたが、ビジネス視点からだとまた違うハワイが見えてきました。吉田さんと出会えたことで、もっとディープにハワイと関わっていけそうです。フィニッシュラーメン最高でしたね(笑)。
2018年6月 ハワイ報知にて ライター:夏目みゆ 撮影:BetterHalf 寺 雄平
今回のハワイ取材で気づいたのが、イミグレーションが混んでいてかなり並ぶということです。昨年家族でハワイに行ったとき、2時間も待たされた経験があり、「ハワイってイミグレーションが遅いよ」と思い、下記のキャンペーンを開始しました。ハワイの空港関係者や政府関係者に直談判しに行きますので、電子署名をよろしくお願いいたします! 混雑時のハワイ入国審査(イミグレーション)をスピードアップする改善が必要です!↓クリックしてください。