島根の修行で叩き込まれた“負けん気”と、名門・大阪「モモタロー」で鍛えた技術。最悪期のニューヨークに単身で渡り、いち早くユニセックスの発想を導入し、紹介が紹介を呼ぶ“リピート設計”で勝ち続けた半世紀。
その背景には、職人としての矜持と「運を磨く」人間力、そして時代に応じて科学で裏づける製品思想がある。
AI時代の今こそ、“リアル”を提供できる者が最後に選ばれる――それが宮本サミーの哲学だ。
Profile
第121回 サミー 宮本(さみー みやもと)
美容師・実業家/「momotaro salon」社長
1947年島根県金城町(現・浜田市)生まれ。7人兄弟の末っ子として育ち、「まず手に職」という家訓のもと理容・美容の道へ進む。島根での厳しい丁稚修行を経て大阪の名門「モモタロー」で技術を磨き、アジア大会で優勝。
1972年、ニューヨーク店初代支店長として渡米。治安も環境も厳しい時代のマンハッタンで、ユニセックスサロンやストレートパーマをいち早く導入し、紹介が紹介を呼ぶ“リピート設計”で顧客を拡大。
1977年に独立し「momotaro salon」社長に就任。松下幸之助氏、長嶋茂雄氏、緒方貞子氏ら数多くの著名人に支持されるサロンへと成長させた。長年にわたり、日米の美容人材育成・技術交流、並びにニューヨーク日系美容界の発展に寄与。さらにニューヨーク島根県人会の創設および会長(2001〜2009年)として、地域コミュニティ運営や文化交流にも尽力した功績が評価され、2023年にはヘアケアブランド「SAMMY. NYC」とともに在ニューヨーク日本国総領事館より在外公館長表彰を受賞した。
momotaro | HAIR & BEAUTY SALON NEW YORK
https://momotaro-nyc.com/
島根から世界へ
――負けん気が私を突き動かした
「まず手に職」
これが我が家の家訓でした。
私は島根で生まれ、7人兄弟の末っ子として育ちました。
戦後間もない頃で、食べたいものを食べられないような時代。学生時代は本当にひどかった。あんまり良い生活はしていませんでした。
だから、手に職をつけたら、食いっぱぐれがないんじゃないかと。
それで理容業界、美容業界に入ったんです。
私にはひとつだけ譲れないものがありました。
「やるなら、絶対、人には負けたくない」
と。負けず嫌いだったんですよね。
最初、島根で修行で、いわゆる「丁稚奉公」をしましたが、これが今思い返しても、本当にきつかった。
朝4時から、薪を運んで湯沸かしをして、準備ができたら掃除をして。仕事が終わったら使ったはさみを研いで。はさみの歯のつき方が悪いとどやされるし、研がないと翌日の仕事に差し支えますから。冬に寒さで手が切れて血が出ました。また、寝ずにレッスンして、技を磨き上げました。
「何でこの業界に入ったんだろう?」と思ったことも1度や2度ではありません。
器用さよりも継続の胆力。そこで学んだのは「負けん気は資本である」。
「1番になったろ!」
――大阪、そしてニューヨークへ

「1番になったろ!」と常に思っていたので、大阪に移ることに。
日本なら大阪か東京、と思っていたのです。
当時、大阪の美容院と言えば、老舗の「モモタロー」でした。そこで「まずは1番」と頑張りました。あきらめなかった。
2、3年後、いつのまにか指導する立場になっていました。そして、アジア大会でも優勝しました。負けん気が私をここまで押し上げてくれたのです。
親父は「あんな危ないところ」と猛反対しました。でも、「日本にいては大物にはなれない」「世界でトップになりたい」という思いが強かったので、覚悟を決めて行くことに。親父を説得しました。
親父は息子を戦場に出すような気持ちだったそうです。「1年だけだぞ。そうしたら、地元に戻って来るんだぞ」と念を押されました。
先日2度目の大阪万博が開催されましたが、私は1回目の大阪万博後に渡米しました。
当時は今とは状況がまったく違いました。1ドル360円の時代。闇では1ドル400円で取引されていました。飛行機も羽田からアンカレッジ経由です。 しかも、ニューヨークはとにかく治安が悪かった。
地下鉄も怖いし、夜のセントラルパークなんて、行ったら帰ってこられない場所でした。みんなから「気をつけなさい」って言われて、もうどこにも出ない。店と寝泊まりする場所の往復のみでした。
「ユニセックス」という革新
――新しいものを取り入れる
私を含め3人で渡米しましたが、ひとりはノイローゼ気味になって帰国、もうひとりは初代オーナーと馬が合わなくて辞めました。私はなぜか初代オーナーと息が合ったみたいです。
1年という期間は一瞬でしたね。イメージとは全然違った。このままじゃ中途半端でとても日本に帰ることなどできなかった。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと次々課題が出てきて。「これでへこたれて日本に帰ったらあかん。どうにか立ち上げて、見せてやらにゃ」と自分に言い聞かせました。
「なんでニューヨークに来て、こんなに苦しまなきゃいけないんだろう」とも思いました。日本にいたらもっとのんびりやれたかもしれないのに。結局、軌道に乗るまで3年くらいかかりましたね。
どんどん新しいものも取り入れました。理容院に「ユニセックス」を取り入れたのも私です。はじめは男性向けの理髪だけだったけれど、「これじゃあかん」と思って、男性も女性でも誰が来てもいいように切り替えて、トータルケアができるようにしたのです。
ストレートパーマも、アメリカに最初に持ってきました。アメリカ人のくるくるの髪の毛をまっすぐにしたくてしたくて。
みんな、ないものをねだるんですよ。ストレートの人はパーマにしたいし、天然パーマの人はストレートにしたい。これは当たりましたね。
こうして、口コミで店の評判はあっというまに広がっていきました。
新しいものを取り入れる一方で、私は古いものも大切にしました。「ものには魂がある」。これは日本人ならではの発想かもしれません。
大阪時代から、「はさみはとにかく大事にしなさい」と教えられましたね。魂をぶち込め。夜は抱いて寝なさいって。そうしたら、自ずと答えが出てくるから、と。今でも1本のはさみを大事に使っています。
リピートで測る、真の顧客満足

おかげさまで、リピートしてくださる方も多いです。
うれしかったのは、松下幸之助さんがニューヨークに来ると必ずカットに訪れてくれたこと。「お金はいらないです」と言ったんだけど、3ドルか5ドルのチェックをくださいました。大事に取っておきましたね。一番印象が強いです。
あとは、元巨人軍の故長嶋茂雄監督。ワールドシリーズでニューヨークを訪れると髪を切りにきてくれて。一緒に写真も撮りました。日本の外交官の小和田恆さんは、いつもキャンディをお土産に持ってきてくれました
ニューヨークという街では、大企業の社長や経営者など、日本ではなかなか会えない人にも会うことができますね。
私は職人だから、お客さまを満足させて、喜んで帰ってもらいたいと常に考えています。そのためには、髪の感覚だとか生え際、顔の輪郭に合わせてスタイルをつくっていく。これを続けてきました。
日本人の髪質は欧米人とは違います。だから、その特性を理解して、一人ひとりに合わせた技術を提供する。これは科学的な理解と、職人の感覚の両方が必要です。
私が売っているのは、単なるカットやパーマという「製品」ではありません。サロンでの体験、家に帰ってからの再現性、そして使い終わった後に残る印象――つまり、トータルな「サービス」なんです。だから、安売りはしない。価値に見合った適正な価格こそが、次のリピートにつながるのではないでしょうか。
今年、この道53年を迎えました。先日、東京と大阪で50周年パーティを開催し、多くの方にお越しいただきましたが、実際に会うことの大切さを改めて感じましたね。
職人として生きる

人生は経験値だと思います。厳しい修行時代を経験したからこそ、今がある。
コロナ禍は本当に厳しかったです。911のときよりも大変だった。ロックダウンで街には人がいない。車も通らない。がらーんとしちゃって。このときは辛抱でしたね。どうなるかなんて見当もつかない。だから、そこで生活ができて、生きられるだけでもまあいいんじゃない、と思って乗り越えました。
今は「AIの時代」だと言われています。でも、私は思うんです。AIには人の手のぬくもりや、その人にしかできない技は真似できない。
だから、若い人にこそ言いたい。手に職をつけなさい、と。それは誰にも奪われない、あなた自身の財産になるから。
今の日本は恵まれすぎているので、逆に今の若者は大丈夫かな? と心配になることがありますね。
今の私には、やり残したことはありません。
「本当にやり切った」と言い切れます。50年以上、美容師として。
孫も7人いますし、ひいおじいちゃんですから、これからは少しのんびり過ごせたらとも思います。
でも、はさみを握る限り、私は職人でありたい。
「手に職があれば、何があっても大丈夫」――これは親父の教えであり、私の人生そのものです。
経験や技術は盗まれない。
それが私の誇りなんです。
ヘアケアブランド「SAMMY. NYC」のサミー宮本氏 ニューヨークで在外公館長表彰を受賞
今回のインタビューでは、杉山さんが「私が頭の中でぼんやり考えていたこと」を、次々と言葉にしてくれて、本当に驚きました。 手に職を持つことの価値、ニューヨークで50年続けることのしんどさと誇り、そしてAIの時代だからこそ“人の手”と“リアルなサービス”が最後に選ばれるという感覚まで、全部言語化してもらったような気がします。
杉山さんご自身も、子どもの頃に13年間ニューヨークで過ごされていて、あの街の空気や、70〜80年代の「怖さ」と「エネルギー」の両方を体で知っている。だから話していて通じ方が深いんです。「ああ、この人は本当にわかってくれているな」と感じました。
今回、日本に戻ってきて、50周年パーティーという大きな節目を迎えましたが、正直に言うと、一番楽しかったのは杉山大輔さんとの出会いと、このインタビューの時間でした。自分の半生と哲学を、あれほど丁寧に掘り起こしてもらえたのは初めてで、感謝の気持ちでいっぱいです。今度ニューヨークに来る時には僕の家に遊びにきてくださいね。
美容師・実業家/「momotaro salon」社長 サミー 宮本
サミーさんのお話には、AI時代の今だからこそ響く真理がありました。どれだけ技術が進化しても、“手に職”という人間の技は、誰にも奪われず、そしてAIには決して置き換えられない。50年以上のキャリアを通じて、その答えを体現されていると強く感じました。
また、80年代のニューヨークで事業を立ち上げ、治安も環境も厳しい時代のマンハッタンで成功を積み重ねてきた胆力には、心から敬意を抱きます。私自身、幼少期の13年間をニューヨークで過ごした経験があり、当時の空気感や街の厳しさをよく覚えています。だからこそ、サミーさんが語る“あの環境で続けることの難しさ”に深い共感を覚えました。
半世紀にわたりニューヨークで信頼を積み上げてきた背景には、技術だけでなく、人としての誠実さや責任感、そして「運を磨く」という生き方がある。それこそが、変わりゆく時代の中でも普遍的に選ばれ続ける理由なのだと学ばせていただきました。
2025年10月
取材・編集: 杉山 大輔
プロジェクトマネジャー:安藤千穂
文:柴田恵理(『私の哲学』副編集長)
写真:ごとーひろな



