ミシュランのビブグルマンに3年連続で選ばれ、“感動のイタリアン”とも称される麻布十番の人気店『リストランテ・ラ・ブリンツァ』のオーナーシェフ奥野義幸氏。食材を存分に生かした繊細かつ自由で大胆な料理を提供しながら、次々と新しいビジネスを仕掛けるパワーの源は何なのか。今最も勢いのあるシェフの料理業界転身のきっかけや、その背景についてお話を伺いました。
Profile
第60回 奥野 義幸(おくの よしゆき)
リストランテ・ラ・ブリンツァ オーナーシェフ
1972年大阪府生まれ。和歌山の割烹料亭の息子として育ち、経営学を学ぶため渡米。アメリカの大学を卒業後、日本で2年弱の会社員経験を経て、料理業界へ。東京のイタリア料理店で修行後、28歳で渡伊。リグーリア州やピエモンテ州など、8州の星付きレストランで研鑽を積み、帰国。2003年「リストランテ ラ・ブリアンツァ」をオープン。イタリア全土の料理を、独創的な観点と確かな技術力で提供し続ける傍ら、イタリア料理の原点でもある「家庭料理の延長線上のようなリストランテ」を目指す。地元住人はもとより外国人、イタリア大使館職員にも愛されている。現在、3店舗のオーナーシェフとして腕を振るうほか、食品プロデュースや料理講師、海外での店舗プロデュースなど活動は多岐に渡る。
※肩書などは、インタビュー実施当時(2017年7月)のものです。
小さな反骨心と大きな好奇心
1972年、僕が大阪で生まれてすぐに、両親が和歌山でレストランを開いたんです。世の中は高度経済成長から安定成長期に入り、ファミリーレストランと喫茶店の中間みたいな形態の店は、当時の和歌山市内では珍しく、とても流行りました。それから4〜5年後、バブル景気の始まりと共に和歌山最大の歓楽街“アロチ”で割烹料亭を開業。ビルの1階が店舗、2、3階が自宅でしたから、お腹がすけば店でご飯を食べ、お小遣い稼ぎにアルバイトさせてもらうような、常に料理と触れ合う環境で育ちました。
父は、何事も勉強だと言って、“吉兆”で食事をしたり、“強羅花壇”に宿泊したりと、財界・文化人が好む“一流”にも触れさせる人。子どもながらにその凄みは感じるのですが、「ウォータースライダープールがある方が良かったな」と思っていましたね(笑)。
「小さくても一国一城の主であることが、お前の勉強になる」という父の教えに、10代の頃は対抗心もあり、「仲間と一緒に作り、達成すること」に夢中になりました。特に、剣道で全国大会へ数回行くんですけど、ほとんどは団体戦。「やっぱり、仲間と勝ち得たものは尊いじゃないか」と。さらに、進学校ながらも、とにかく親元を離れたい気持ちが大きかった。だから親には内緒で進路希望を“就職”にしたんです。いくつかの会社から案内も貰い始めた頃、まずまずの成績だった僕の親に先生が大学進学を進言。僕にしてみたら就職したいのに「余計なことを!」と思いましたが、勧めてくれたのはアメリカ中西部・サウスダコタ州への留学。知らない都市だし、もちろん親元を離れるし、ワクワクできそうじゃないですか(笑)。 まんまと先生の思惑にはまりまして。ホームステイしながらTOEFLを受けて大学に入りました。サウスダコタでは、トランスファーもせずにずっと同じ学校で過ごしましたね。
鯛の尾より鰯の頭
帰国後、日本企業に就職しました。サラリーマンを経験して「どれだけやっても本当の意味でトップになれない」と痛感してしまった。もちろん、“トップ”と一口に言っても、さまざまなジャンルがあります。僕は今、経営者という意味ではトップだけれど、レストランでのトップといえばお客様です。納入業者やサポートしてくれる仲間は「パートナーであって上下ではない」というのが今なら分かりますが、「小さくてもトップになりなさい」と言われて育ったことがどこかに染みついていて忘れられなかった。
1年8か月の短いサラリーマン生活で「すべてを理解した」なんてことはありませんが、自分で「完全な責任を負いたい」って思ったんです。誰かのせいとか“ドンマイ”って逃げられる環境にすごく違和感を持ってしまった。「自分で何かをやりたい!」と強く思いましたね。とはいえ、20代のガキですし、社会に出て短期間で周りから求められてる才能なんてものはない。そんな時、自分にとって一番身近だった“料理”に自然と興味が向いていきました。
イタリア料理の門をたたいた理由、それは格好良かったからですよ(笑)。まずは、日本で最初のイタリア人シェフのリストランテで4年ほど修行した後、28歳でイタリアに飛びました。文化や人を含めて、学ぶべき対象物をきちんと見ること。本場や本物を知らないと、先に進むごとにブレてくると思うんですね。
「奥野君の作る料理って、すごく創作性もあるし、和食の食材も使うし、これほんとにイタリアンなの?」って聞かれたら、「日本でもイタリアでも、イタリア料理だけを修行してきましたから、僕のフィルターを通して作ったものは、すべてイタリアンです!」と自信を持って言い切れる。イタリアが好きで、イタリアで重ねた時間と、日本でもイタリア語を話すお客様とコミュニケーションが取れる瞬間も“イタリアンの職人”という自負を感じます。
常に刺激的なところに身をおきたい
イタリア語は話せなくても、英語が話せればなんとかなる!と思っていました。まずは、イタリアのソムリエ学校へ。イタリアの料理人は修行時代、「研修生=ステージスタ」と呼ばれ、住み込みや間借りをして働きながら学びます。
つてのない僕は、ソムリエ学校の同級生アレッサンドロの実家が星付きのレストランだと知り、「キミんち、ダメ?」「いや、住むところがないよ」「納屋でもなんでもいいからさ」「ママに聞いてみるよ」こんなやりとりで頼み込んだんです。そうしたら納屋を改装してくれて(笑)。
西側がフランスに面した海沿いの観光地、リグーリア州で夏の繁忙期に4カ月ほど滞在しました。秋のオフシーズンに差し掛かり、イタリア語もずいぶん話せるようになった頃、アレックスのママ、シニョーラが「ヨシ、次は秋から雪が深く積もる頃までピエモンテ州へ行きなさい。白トリュフとポルチーニがたくさん使われていて勉強になるから」と言って、次の働き口の話をつけてくれました。今度も一ツ星のレストランです。
シニョーラの紹介から始まり、いくつかの場所で過ごしてイタリア語も流暢になると、次はイタリア全土のレストランの本やミシュランガイドを読み漁って、気になるレストランに自分から電話をかけるんですよ、片っ端から。「給料要らないから、部屋は空いていないか」「日本人はいるか?その日本人はいつ帰る?その代わりに入ります!」という具合に。
僕は、興味が沸けば勉強したい、飛び込み攻めてみたい、といういう気持ちがとても強い。そしてある程度身に付けると「クリアした」と感じることが多いので、次へ次へと求めたい。それがイタリア8州で修行した大きな理由です。
僕はちょっと人よりも能動的で多動的だと思うけれど、当時、電話作戦は当たり前。みんなそうして自分の経験値を高めてきたんです。それも海を渡った先輩方がいたからこそ、「日本人」としての信用があるんですよね。大事なことです。
続いていく“奥野イズム”
これからチャレンジしたいのは、「日本の職人構造をぶっ壊す」ことです。業界の師弟関係の話ではありません。アラン・デュカス、ジョエル・ロブション、アラン・パッサールなど、スーパースターシェフと言われる彼らが、世界中に自分の店をどのくらい持っているかご存知ですか?3桁ですよ。100とか200店舗。そうすると、必然的にいつもシェフが店舗にいるわけではありません。それでも、お客様は「ロブションのお店、美味しかったね」と満足して帰っていく。逆に彼に会えたら「とてもラッキー」というような。
海外ではスーパーシェフ=ビジネスマンでも良いという考えが浸透していて、お客様がレストランを育てる懐の深さもある。一方、日本では寿司屋をはじめ、カウンターで少人数のレストランが多いので“大将”の不在にも大きく左右されてしまいます。「大将が休みだから、行かないよ」とか「大将が握るとやっぱり違うね」という風に。それも“馴染み”の醍醐味ですが、大将の素晴らしい技を、若手や新たな才能へと継承するチャンスをお客様自身が奪ってしまうこともあると感じています。
また、オーナーシェフが店舗を増やすと「金儲けに走ったな」と言われることも多い。でもそれって、その先の夢への投資かもしれない。それぞれ視点って、違うと思うんですよね。だから例えば、「シェフはキッチンにいなければダメだ」みたいな構造を壊したいんです。多店舗展開=大手チェーンなのではなく、高級レストランでも展開できる環境にしたいですね。僕が、体現できてそれが外から認められたら、何かが変わるのかなと。
そのために、後進の指導やコンサルティング、店舗展開もなど料理の枠を超えた活動もどんどんやってきますよ。それは、僕自身「ノー」をほとんど言わない人間だから。「あ。それ、やります」ってすぐに言ってしまう。それに「仕事増えちゃったよ」ではなくて、「こんなに仕事いただけて嬉しい!というポジティブな思考になっていることも大きいですね。今、タイでコンサルティングをしているんですが、カンボジアにもご縁がありそうなので楽しみながら動いていきたいですね。
杉山大輔さんってパワフルで嘘がなく情熱的でお話し好き。 そんなパワーに後押しされて、あっという間にインタビューが終了していましたが、自分でも驚くほど僕自身の想いや考えが引き出され、客観的に色々と勉強させていただきました。 自分自身を再発見させていただけるような素晴らしい時間、本当にありがとうございました!
リストランテ・ラ・ブリンツァ オーナーシェフ 奥野 義幸
サシトーク、「私の哲学」の醍醐味である、興味・関心のある方への直撃インタビュー。奥野義幸シェフの力強い目力、攻める生き方が彼の創り出す料理に現れているのだと感じました。
今年の初めに、大学の先輩にリストランテ・ラ・ブリンツァに連れて行っていただきました。奥野シェフをご紹介していただき、多くの共通の知り合いがいたのがスタートでした。料理も大変美味しく、中でも一番印象に残ったのが、医療用のメスの切れ味のあるナイフでした。メディアではリストランテ・ラ・ブリンツァや料理のことについての記事は多数みかけましたが、奥野シェフがどのように誕生したのか、オーナーとしての思いなどに興味があり今回のインタビューで解き明かされました。すごい行動力の男です。またお店に行くのを楽しみにしています。
2017年7月 リストランテ・ラ・ブリンツァにて ライター:マツオシゲコ 撮影:Sebastian Taguchi