ニューヨークにある『剣禅道場』の館長として、剣の心を伝え続けるダニエル・T・海老原氏。高校卒業後、単身渡米し、次々と仕事を変えながら人脈を広げ、不動産で成功を収めながら人生を開拓し続ける氏の、わらしべ長者のような人生物語を語っていただきました。
Profile
第69回 ダニエル・T・海老原(えびはら)
ニューヨーク剣禅道場館長 | 起業家 | プロダクトデザイナー
1938年東京都生まれ。アメリカ・ニューヨーク在住。青山学院高等学部卒業後、単身渡米。1959年ハンターカレッジ中退、1961年コロンビア大学中退。柔道を教えながら英語を習得し、56もの仕事を渡り歩きながらビジネスセンスを磨き、人脈を広げる。父の輸入業の手伝いをきっかけに、不動産業界へ。ブローカーの資格を取得して独立。剣道教士7段。
自分の道を切り開きたい
僕は東京・浅草の生まれです。青山学院高等部を卒業してから、突然アメリカに来てしまいました。「なぜ、そのまま大学に行かなかったの?」とよく聞かれますが、理由は、表街道に違和感があったから。誰もが思い描く表の道よりも、空いていて自分のやり方で目的地にたどり着ける裏街道を選び、自分の足で目的地に到着したいと思ったんです。目的地は、何とかして父を超えたいという思いでした。“社長の息子”と言われるのが嫌いで、「僕は僕の道を、自分の力で切り開いて生きる」という強い思いがありました。 父が独立したのは14歳の頃です。女性が服に付ける造花を作っていました。自分の工場を持っていて、戦時中は満州と韓国に大きな工場を持っていました。大学へ行かないという僕に父は、「好きにすればいい。俺はお前の歳のときには、すでに2,000人の人を使っていた。俺の息子なら、お前にだってできる。ただし高校だけは出てから行け」と。 だから、高校の卒業式に出てから、「これから家出をします」と言って、アメリカに渡りました。父が餞別に500ドルくれました。当時は2ヶ月ほど食べられる額です。それを手に、父が輸出している荷物の監督をするために船の切符を手に入れて。“家出”と言いましたが、自分の力で道を開くために父が背中を押してくれたんです。武道が世界を広げてくれた
渡米したとき、英語はまったくできませんでした。単純に“できない”というよりは、日本での教え方に違和感を感じていたんです。英語圏に生まれた赤ちゃんは、必ず英語が話せるようになる。誰から教わらなくてもそうなるわけで、日本で英語を勉強するより、行ってしまおうと思いました。アメリカに着いて最初にやったことは、英語を覚えること。結果的に“行って覚える”方法は、僕に合っていたと思います。 当時のアメリカは柔道ブームで、たまたまYMCAから、「柔道ができるなら教えてほしい」と声がかかって、いきなり弟子が何人もできました。そのつてで、ブルックリンのレクリエーションセンターで教えることになり、その後は、セレブなビジネスマンが集まるニューヨークアスレチッククラブや、ハンガリアクラブなど、どんどん世界が広がり、知り合いも増えました。その中に、フェンシングのオリンピック代表がいたのですが、呼ばれて行ったパーティーで、「剣道はできるのか?」と聞かれ、余興で試合をして“突き”で突き飛ばしたんです。そしたら、「教えてくれ」と。それが『剣禅道場』のはじまりです。ピンチをチャンスに
他にも、大工やタクシーの運転手など何でもやって、振り返ってみると56種類もの仕事をしています。アラスカでも仕事をしましたが、そのうち、「親父を超えたい」という思いから、商売をしたいと思うようになりました。でも、商売を始めるにはまとまったお金が必要です。父からの頼みで、工場で作っている商品の輸入を手伝うことにしました。そうすると、港でストライキが起きて、船は港に入ってくるものの荷物を受け取ることができなくなりました。商品はクリスマス限定の飾り。取引先は決まっていたのに、すべてキャンセルになってしまったんです。 銀行からの融資はすでに父の会社には入金されていて、僕だけが港で待ちぼうけ。クリスマスは迫ってくるし、これを切り抜けるには小売するしかないと思った僕は、ハーレムの路面の1店舗を借りて商品を持ち込み、小売りを始めました。商品棚は作らず、ただ天井からサンプルを紐でぶら下げて。クリスマスまであと2ヶ月という時期でも、まったく売れませんでした。たまたま水を飲みに入ってきたアフリカ系アメリカ人と仲良くなって、ハーレムの重要な人物たちとつながりました。それでも商品は売れず、僕はもう銀行の前で切腹して死ぬしかないと思いました。そんなとき、売れない理由にふと気づいたんです。そこはハーレムで、住んでいる人は皆アフリカ系なのに、クリスマスの人形の肌がどれも白いことに。そこで、人形の肌の色を黒く塗ったら、少しずつ売れ始めました。そして、クリスマスの1週間前、ボーナスが入る時期になって一気に売れましたね。結果的に、卸売りよりも何倍ものお金が入ってきて、無事、銀行にお金を返すことができました。この経験で、僕に商品売買は向いていない、と心底思いました。 残ったお金ではじめたのが不動産業です。クリスマスの飾り付けの売り上げの残りでビルを2棟購入したものの、右も左も分からないので、不動産会社に勤めていろいろ学びました。おかげさまで、会社に大きな利益をもたらすことができ、その会社の社長がスポンサーになってくれて、ブローカーの資格を取得しました。それが人生の大きな転機になり、不動産で有名なハリー・ヘルムズリー氏、今は大統領になったドナルド・トランプ氏などとも知り合い、自分のビルの借金を完済。ビルの収益でいくつかの道場を運営し、悠々と過ごすことができています。剣士として、開拓者として生きる
ダニエルという名前は、アメリカを開拓した人物、ダニエル・ブーンから取りました。ダニエルは、アメリカ大統領になってもおかしくなかった人物なのに、辞退して、ジョージ・ワシントンを助けることに従事して、ケンタッキー州にある小さな村で一生を過ごしました。要するに、彼は有名になろうと思わなかったし、金持ちになろうとも思わなかった。ただひたすら人の幸せのために生きた人。僕も、父を超えたいというだけでなく、そういう人物でありたいと願いました。だから、アメリカでシティズンシップを取ったとき、理想とする人物の名前を名乗ることにしたんです。僕も、自分の人生の開拓者であり続けたいと思います。 人生もビジネスも、すべてに失敗はないと思っています。失敗したとしても、またすぐに次のことを始めるから、結局失敗なんてしていない。日本には“柔能く剛を制す”ということわざがありますが、これは、ビジネスにも人生にも言えることです。しなやかなものは、鋭い矛先を巧みにそらして、結局は勝利を得ることができる。相手をやっつけようとして戦っていると心は塞がってしまいますが、「いつでも、どこからでもどうぞ」とオープンにしたときこそ勝ち目が見えるんです。常に戦っていても勝てないし、相手が抜いた瞬間に不意をつくわけでもない。風に揺れる柳のようにしなやかに、場の空気に任せ、俯瞰して物事を見ていれば、必ず進むべき道が見えてきます。ニューヨーク剣禅道場館長、起業家、プロダクトデザイナー ダニエルT.海老原
小学生の時にニューヨークで剣道を始めてお会いしたのが海老原先生です。今から約30年前のことです。小学生ながらに、海老原先生はすごい大人だなど衝撃を受けたのを覚えています(笑)定期的にニューヨークに行く時や日本にご帰国された時にお会いして様々なアドバイスをいただいておりました。 「私の哲学」のニューヨークシリーズを実施するにあたり、僕にとって衝撃的な海老原先生の考えを多くの方に知ってもらいたいと思い実現しました。海老原先生はストーリーテリングが大変上手であり、かなりのポジティブマインドを持っています。僕が会社を起業した時に、「色々な仕事や体験はすべて川である。たくさんの川が合体するとそれはいずれ大河になる。一つ一つの仕事や出会い全力でやるように」とアドバイスをいただき、たくさんの川を作っています。小学生の時からお世話になっている方とのインタビューは最高な思い出になりました。
2017年9月 ニューヨーク、剣禅道場にて ライター:MARU 撮影:Sebastian Taguchi