「やり遂げる気持ちは誰よりも負けない」という思いで、数々のトンネル工事プロジェクトを成功に導いてきたのが、成豊建設作業所長の井上淨雄氏。強い信念を持ち続け、困難な状況でも決して諦めずに自らの手で道を切り拓いてきたその姿勢に、多くの人々が共感し、信頼を寄せています。
Profile
第116回 井上 淨雄(いのうえ すみお)
成豊建設株式会社 作業所長
1970年、福島県福島市生まれ。母子家庭で育ち、逆境を乗り越える強さを学ぶ。中学卒業後、東京の日本料理店に住み込みで就職。その後、さまざまな職を経て土木業界に転身。中学3年時に行った寺での修行が人生を変えるきっかけとなり、精神力を鍛え、目標に向かう根性を身につける。数々のトンネル工事プロジェクトを成功に導き、成豊建設株式会社の作業所長として多くの信頼を得ている。「無理」をチャンスに変える姿勢で知られ、20を超える資格を保有。好きな言葉は「闊達自在」であり、趣味はゴルフと陶芸。現在も現場での問題解決に力を注ぎ、仲間と共に新たな挑戦を続けている。
成豊建設株式会社 ウェブサイト
成豊建設株式会社 マイナビ2025年 新卒募集
逆境からの出発
私は福島市で生まれ育ちました。母子家庭で、小さい頃から母は昼パート、夜は水商売で切り盛りしながら、私と弟を育ててくれました。そんな母の背中を見て、逆境に負けない強さを学んだ気がします。
小学校時代の私はいじめられっ子でしたね。身長は大きかったのですが、母親の仕事のことで理不尽な言葉を投げかけられることもありました。
中学校に進学してから、状況は少し変わりました。4つの小学校が統合され、環境が一新されたんです。1年の時は誰かが推薦してくれて、なりゆきで学級委員長をやることにも。
でも、中2でクラス替えになった時に仲良くなった双子の兄弟がいわゆるワルで。その方面に進んでいったのです。夜中に遊んだり、バイクに乗ったり……。でも、一方で新聞配達をずっとやっていたんです。ワルなのに(笑)
たとえ夜遊びをしても、朝の配達は絶対に休まない。団地の配達で、号室ごとに仲間に分担してもらって新聞を配っていました。この頃からマネジメントをしていたんですね。
ところが、これが担任の先生にバレて、お給料を全部没収されました。でも、先生はそれをすべて貯金してくれたんです。偶然なんですけど、その先生は母が子どもの頃の担任でした。最初は「バイトなんかしちゃダメ!」と反対されましたが、片親だからということで認めてもらって。卒業時には貯金は50万円になっていました。本当はバイクの頭金にしようと思っていたのですが、結局その金は使わずに、今でもゆうちょ銀行に預けたままです。大切なお金なもんで。
寺の修行で得た気づき
ある時、ひとつの転機が訪れました。中3の夏休みに入る前のことです。担任の先生に、「ラーメン食いに行くぞ」と車に乗せられたんです。ところが、着いたのは岩手県の正法寺という寺の前。福島から3時間ちょっとかかる山奥です。そこに、夏休みの間ぶち込まれ、お坊さんと一緒に生活することになりました。どうやら、母親と先生の間では事前に話がついていたみたいで、お寺には私の荷物がすでに運び込まれていました。
そこでの生活は、細かくルーティンが決められた厳しいものでした。朝4時半起床。40~50分間座禅を組み、般若心経を読み、お寺の掃除をする。
正法寺は由緒正しいお寺で茅葺屋根が日本最大級の法堂は国の重要指定文化財。生垣は800年前のもので国宝。ここを訪れる人たちを案内する仕事もありました。寝起きもお坊さんと一緒です。食事はたくわんとみそ汁のような質素なもの。最初は帰りたかった。でも、我慢。修行は決して楽ではありませんでしたが、精神力を鍛えられました。故瀬戸内寂聴さんに会って、怒られたこともあります(笑)
この経験で「やり遂げる力は誰にも負けない。自分には目標を立てて、それに向かっていく根性があるな。俺やれるわ」と思えたんです。もし修行に行ってなかったら、きっと今頃は投げ出していたでしょうね。私には「無理」という言葉がなくなりました。今では、ここでの経験が私の哲学の礎になっています。
社会人としての道のり
中学卒業後、東京の日本料理店に住み込みで就職しました。皿洗いやメニューを取る仕事、仕込みなんかをしていたのですが、3カ月で辞めてしまって。例の双子の兄弟も上京し、遊びに誘うので誘惑に負けてしまったのです。その後は残った給料でプラプラと遊んでいました。ところが、新宿の歌舞伎町でちょっとした事件に巻き込まれ、双子のひとりが捕まったんです。彼らのおやじが探しに来て、地元に連れ戻されました。
そこでは、土木の仕事を紹介してもらって、河川の土留めの石積みやコンクリート打ちなどを半年ほどやりました。その後、友達2人に誘われて横浜の回転寿司屋で働き始めました。単に横浜に行ってみたかったんですよね。当時は暴走族の最盛期で、友達は横浜連合グループの「六浦さきがけ」に入っていたんです。当然のように私も加入して、一緒に早朝暴走族をやっていました。
そんなことを半年くらい続けていたんですけど、ある時飽きちゃって。福島に戻ることにしました。そこで、先輩の紹介もあって鉄筋工になりました。21歳には下請け会社の社長に就任し、先にこの業界で働いていた弟と一緒に仕事をしました。
この時、友達2人も一緒に福島に帰ってきたんですね。で、「福島で暴走族をつくろう」という話になったんです。「毎度おなじみ 瀬上蘭」と命名しました。私は特攻隊長で旗持ちを担当。一番後ろで「しんがり」として、信号で団体が分断されないように交通整理をする役目でした。この暴走族は26年続きました。
人生最大の試練
24歳の時に人生最大の試練となる出来事がありました。それは最愛なる人との別れです。22歳で出会った彼女と結婚を考えていたのです。ところが、ある時、彼女が自宅近くで酔っ払い運転のひき逃げ事故に遭いました。即死でした。加害者は捕まりましたが、当時は最高でも懲役2年。今なら15年以上の刑になるところです。
精神的なダメージが相当大きくておかしくなって、まったく仕事にならず会社も倒産。完全に自分を見失ってしまいました。
そんな私を見かねて、母は叔父に相談したようです。叔父は当時、成豊建設の作業所長だったのですが、中央自動車道大月付近のトンネル工事に私を連れて行ってくれました。「現場に行けば、少しは私の気が紛れるのではないか」と考えてくれたようです。それが、私がトンネル工事に携わることになったスタートです。そこではほかの作業員の人たちと知り合い、いろいろと面倒を見てもらいました。そのことでかなり気が紛れました。叔父はその後、常務、専務まで務めました。私は成豊建設の作業所長として、現場全体を管理する立場に立つことになりました。
道を切り拓く勇気
以来、トンネル工事の仕事を続けていますが、現場では、毎日のように予期せぬ問題や困難が起こります。しかし、私はどんな時でも「何ができるか?」を考えるようにしています。
雨を止めることはできないけれど、雨に当たらない方法は考えられます。「水がいっぱい出てきたから、これ以上進めない」と作業員が言ったら、「こうすればやれるんじゃない?」を提案するのです。
コントロールできないことに力を使うのではなく、できることを探し、実行する。現場でも、みんなが「無理だ」と投げたことにこそ、チャンスがある。みんなが無理なことを自分がやれば、これは自分のものになるからです。
なんとかやれる方法を考えて、やりきる。そういう気持ちでやってきたら、信用がついてきました。「井上に任せればやれるから大丈夫」と思ってもらえるようになったのです。
現在、私は20を超える資格を持っています。足場の組み立て、掘削、復興、特定化学物質、解体工事の作業主任者から、火薬、ユンボ、ブレーカー解体、高所作業車、移動式クレーン、玉掛けまで。すべて現場で必要だから取得しました。
私のスタイルは「何があっても現場を止めない」です。トンネルは前に進んでなんぼだから。「材料がないからできない」ではなく、ないならないなりにできることをやる。
トンネル工事は長さによって変わりますが、今の現場は約6年かかります。普通はひとつのプロジェクトが全部終わってから、次の現場に行きます。でも、私のチームは現場を掛け持ちします。掘削が終わった段階で、先に掘削担当を次の現場に行かせて段取りさせる。私や復興、コンクリート担当の人は、残りの作業がすべて終わって引き渡してから移動する。そうすることで、現場を止めることなく効率的に動かし続けることができるのです。このようなやり方をしているのは私だけです。
命の重さを知って
私の人生の転機には、いつも「死」がかかわってきました。幼少期には父の死がありました。それから、中学時代の親友だった双子の兄弟。16歳の時に兄のほうがシンナーが原因で命を落とし、その2年後、弟がバイク事故で亡くなりました。24歳には恋人も失いました。
それ以来、人は生まれる時も死ぬ時も結局ひとり。だからこそ、今この瞬間を精一杯生きることが大切だと考えています。
困難にぶち当たった時、何もしないで止まるのではなく、常に一歩を踏み出す勇気を持つ。それが私の信念です。作業所長として、常にそういう提案ができることが大切だと思うのです。そうやって周囲からの信用を積み重ねてきました。
これからも、今を大事にしながら一つひとつの仕事を大切にやっていきたいと思います。「できない」と誰かが言ったことを「できる」に変えていく。それが私の生き方です。
他の著名人と並ぶことができ、名誉に思い感激しています。幼少期には多くの苦難を経験しましたが、そのおかげで少しでも役に立てることができれば幸いです。小さな挫折があっても、それが人生を変えるきっかけになることがあります。大人になっても挫折は付きものですが、「人生はトンネルのように、光の射さない道はない」と信じています。
振り返ると、過去のすべての経験が今の私を作り上げてきたと感じます。幼少期の逆境や中学時代の荒れた生活も、私に大切な教訓を与えてくれました。現場は常に変化し、新たな問題が発生しますが、諦めずに解決策を探す姿勢が、現場を任される者の責任です。
私の仕事は一人では成し遂げられず、多くの仲間と共に歩むものです。これからも、自分自身の成長を忘れず、チームと共に新たな挑戦を続けていきたいと思います。
成豊建設株式会社 作業所長 井上 淨雄
「人生はトンネルのように、光の射さない道はない」とトンネルを掘っている井上淨雄氏の言葉は重いです。
川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を思い出しました。
僕は何度も逆境に遭遇してきましたが常に前にでることで逆境をはね返す力を身につけました。それは、きっと良いことが起きると信じることでした。
井上淨雄氏の生き方には、逆境を乗り越え、決断と行動で道を切り拓く力が宿っています。彼が成豊建設で行っているトンネル工事の現場では、1メーターごとに発破をして崩れた岩を回収し、このトンネルを作るための繰り返しの作業が続いています。その中で、井上氏は「やりきる力」を体現し、困難を乗り越えていく姿勢に多くの人々が感銘を受けています。
私は国のインフラを作る現場を目の当たりにし、作業所長としてすべてを管理する温かい兄貴分の存在が仲間たちから信頼を寄せられている様子を拝見しました。事務所に掲げられていた「安全は技」という言葉は、井上兄貴の姿勢を表しており、まさにその通りだと感じました。
井上兄貴の努力と情熱は、彼自身の成長だけでなく、現場全体の士気を高める原動力となっています。今後も彼の挑戦がどのように展開していくのか楽しみであり、特に北海道新幹線の貫通を心待ちにしています。
2024年10月 北海道新幹線工事トンネル 黒松東作業所にて
取材・撮影(iPhone 14 Pro Max)・編集: 杉山 大輔
プロジェクトマネージャー: 安藤 千穂
文:柴田恵理(『私の哲学』副編集長)